大判例

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静岡地方裁判所 平成元年(行ウ)6号 判決

原告

大野昭子

右訴訟代理人弁護士

大蔵敏彦

阿部浩基

黒栁安生

増本雅敏

萩原繁之

被告

地方公務員災害補償基金静岡県支部長石川嘉延

右訴訟代理人弁護士

向坂達也

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

被告が昭和六〇年一〇月二日付で原告に対してなした地方公務員災害補償法による公務外認定処分を取り消す。

第二事案の概要

本件は、静岡県立吉田高等学校の英語教諭であった原告の亡夫大野芳温が、昭和五九年五月一七日、英語授業中に倒れ、搬送された病院で同月二三日に死亡したことが、公務に起因するものとして、原告が、被告に対し、地方公務員災害補償法に基づき公務上災害の認定を求めたが、被告が右大野の死亡が公務に起因するものではないとして公務外の災害であるとの認定処分をしたため、右処分の取消しを求めた事案である。

一  争いない事実等

1  被災者の経歴等

原告の亡夫大野芳温(昭和一四年一月一日生。以下「大野」という。)は、昭和三七年三月に静岡大学文理学部を卒業し、昭和三八年に静岡県立静岡工業高等学校の講師となった後、昭和三九年四月一日付で静岡県公立学校教員に採用され、同県立相良高等学校、同富士宮農業高等学校、同島田工業高等学校の各教諭(いずれも英語)を経て、昭和五五年四月一日からは同吉田高等学校(以下「吉田高校」という。)に英語教諭として勤務していた。

吉田高校には、昭和四七年の開校時から、静岡県下で初めて普通科の他に専門課程として保育科及び英語科(以下、「英語科」とは、教科としてのそれではなく、吉田高校における学科ないし課程としてのそれをいう。)が併設されており、英語科は従来の読解中心の英語指導から、聞く・話すという生きた英語の学習に力を入れ、英語の授業単位も普通科の倍近くあり、独自の教材に基づき外国人講師を参加させた授業を行うなど、静岡県下でも特色のある学科であるが、大野は、英語教諭として普通科と共に英語科の授業を担当するほか、同校着任四年目の昭和五九年度は、英語科の新入生の学級一七HR(第一学年の第七学級の意味。以下同じ。)の担任であった。

2  発症当日の公務の内容・経過

(一) 昭和五九年五月一七日、吉田高校では全校集会が開かれる日に当たり、特別日課が組まれ、授業は一時限が四五分の短縮授業(通常は一時限は五〇分)で行われていた。

大野は、当日、通常どおり午前八時ころ出勤し、同八時二〇分ころからの職員朝礼、同八時三〇分からの全校集会に出席した。大野の担任学級である一七HRの生徒は、大野が朝のショートホームルームの時に頭痛を訴えていたのを聞いている(〈証拠略〉)。

(二) 大野は、引き続き同九時一五分からの第一時限目には二六HRの英語Ⅱを、同一一時〇五分からの第三時限目には一二HRの英語Ⅰの授業に従事した(第二時限目は空き時間であった。)。その後、正午から午後〇時四五分までの第四時限目も空き時間であったが、大野は同校五階の英語準備室で同僚の英語教諭と英語科紹介のパンフレットの作成について打合せを行った。大野は、この時も右同僚教諭に頭痛を訴えたが、笑顔で機嫌は良かった(〈証拠略〉)。

(三) 大野は、昼休みを挟んで午後一時三〇分からの第五時限目は、一七HRの総合英語の授業に従事したが、この授業中にも、生徒に対し頭痛を訴え、「前にも風呂から出たときに、後ろから殴られたように頭がガーンとなって、僕は死ぬかと思った。」、「今日の昼休みにも同じようになった。」、「今日は頭がくらくらするので椅子に座らせてもらう。」などと話した(〈証拠略〉)。また、右授業終了後、英語科準備室に居合わせた同僚教員に対して、「授業中、頭が痛い、死にそうだと生徒に言ったら、笑われた。」とも話した。

(四) 大野は、続く午後二時二五分から同三時一〇分までの第六時限目は三六HRの英語Ⅱの授業に従事したが、授業冒頭の英語によるあいさつで「今日は頭が痛い。」と言ったが、そのまま立った姿勢で授業を続けていた。ところが、約一〇分ないし一五分経過したところで、「座っていなければ駄目だ。」と言って、その後は椅子に腰掛けて授業を進め、この間生徒から保健室に行くことを勧められたが、「座っていれば大丈夫だ。」として、なおも授業を続けた。しかし、同二時五〇分ころ、大野の異常に気づいた生徒が教室を抜け出して保健室の養護教員に通報し、養護教員が右教室に駆けつけると、大野は、椅子に腰掛け、机の上に肘を置き、右手で口元を覆いながら後頭部の痛み及び吐気を訴えていた。

(五) 大野は養護教員の要請で応援に駆けつけた同僚教諭らにより、担架で校内の保健室に運ばれたが、激しく嘔吐するなど容態は悪化しており、救急車で榛原総合病院に搬送される途中に意識を失い、到着後入院時には、既に昏睡状態で意識はなく、左瞳孔は不正円を呈しており、両眼とも対光反射が認められず、自発呼吸も浅くなっており、血圧も低下するなど危険な状態になっていた。

さらに、同病院での検査の結果、大野は、急性肺浮腫及び脳幹部に多量の出血が認められ、もはや手術も不可能な状態に陥っていたことが判った。

このため、同病院では、大野に対して人工呼吸器の装着、継続的な強心剤の投与等の治療を続けたが、大野は同月二三日午前四時〇一分死亡した。

3  大野の死因

大野の死後、その遺体は解剖され、その結果、直接の死因は、脳幹出血による心不全であるが、これは大野の左前頭葉内側面に存した鶏卵大の脳動静脈奇形の脳室部分の血管が破綻し、くも膜下から脳室内全体に及ぶ著明な大出血をもたらしたことによって引き起こされたものであることが明らかとなった。

4  本件処分及び本訴に至る経緯

原告は、大野の死は公務に起因して発生したものであるとして、同年六月二六日付で被告に対し地方公務員災害補償法四五条に基づき公務災害の認定を請求したところ、被告は昭和六〇年一〇月二日付で大野の死亡は公務外の災害であると認定し、即日原告に通知した(以下「本件処分」という。)。

原告は、本件処分を不服として、同年一一月二六日付で地方公務員災害補償基金静岡県支部審査会に対し審査請求をなしたが、同審査会は昭和六三年三月一九日付で右審査請求を棄却し、原告は、さらに同年四月二五日付で地方公務員災害補償基金審査会に再審査の請求をしたが、これも平成元年三月一八日付で棄却され、同年五月一五日にその送達を受けたため、本件訴訟を提起した。

二  争点

本件の争点は、脳動静脈奇形という基礎疾患を有する大野が授業中に右奇形部分の血管の破綻出血を来たして死亡するに至ったことが、公務に起因して生じたものといえるかという点にある。

1  原告の主張

(一) 公務上災害の認定基準

現行労災補償制度は、憲法二五条及び二七条を具体化するため設けられたものであり、業務上負傷もしくは死亡した労働者あるいはその遺族が人たるに値する生活を営むための必要を満たすべき損失填補ないし生活保障の最低基準を定立し、保護するものとして、労働基準法七五条ないし八八条及び労働者災害補償保険法が定められている。ところで、地方公務員については、労働基準法の適用が除外され、右二法を踏襲した地方公務員災害補償法が適用されるが、同法における「公務上」は、国家公務員災害補償法上の「公務上」、労働者災害補償法上の「業務上」と統一的に解釈運用されるべきものである。

以上の災害補償制度の趣旨・目的によれば、地方公務員災害補償法にいう「公務上死亡」した場合とは、公務と職員の死亡との間に合理的関連があることをいい、当該業務に従事したため基礎疾患を悪化させ死亡に至ったことが推定されれば足りると解するべきである。

(二) 公務の過重性

大野の吉田高校における労働実態は次のとおりである。

(1) クラス担任

(a) 大野は、本件被災前年度(昭和五八年度)は普通科三五HRの学級担任であった。卒業を控えた最終学年であるが、吉田高校の場合は、生徒の進路が就職及び進学の双方にわたることから、就職・進学等の進路指導やこれに伴う内申書類の作成、父兄との面接、さらには就職希望の生徒については内定後の生活指導等、多岐にわたる事務を通常のクラス指導の他にこなさなければならなかった。

さらに、当該学級には、カンニング、喫煙等の問題行動を起こす生徒が他のクラスに比して多く、謹慎処分を受けた生徒が一年間に七名にも上った。大野は、その都度、こうした生徒に対する指導や家庭訪問を実施していたが、家庭訪問は生徒一名あたり三ないし四回、それも夜間に行われたので、自転車で移動する大野には大きな負担となっていた。

(b) 大野は、前記第二、一1のとおり、本件被災年度(昭和五九年度)は英語科の一七HRの学級担任となったが、同クラスには、入学早々、素行上の問題を抱えた女子生徒や授業中に突然目がチラチラしたり吐気や頭痛がするなどの症状を訴える神経症の女子生徒がいた。

右素行上の問題を抱えた女子生徒については、その両親が同生徒を兵庫県にある宗教法人が経営する施設に入所させることを希望していたが、大野は、学業の遅れが生じることからできるだけ在学させて対応を考えようとしており、意見が一致しなかった。大野は、同生徒の素行上の問題、施設に入所させることの是非、入所させるとした場合にその時期はいつ頃が適切かなどについて、両親や右宗教法人の役員と相談するため、同年四月以降、週二回程度、家庭訪問を実施し、殊に五月六日から一〇日の間には三回ないし四回の家庭訪問を行っていた。同生徒の家庭は島田市内にあり、自転車を利用していた大野は、家庭訪問からの帰宅が午後一〇時から同一一時ころになることもあった。このような大野の努力にも関わらず、この女子生徒は同年五月一三日に突然施設に入所してしまい、大野は衝撃を受けた。

また、右神経症の女子生徒については、養護教員と連絡を取るなど、健康管理に配慮し、父兄懇談会で生徒の母親と対応を相談し、その後も教頭、学年主任、養護教員らと頻繁に連絡を取りながら生徒の症状を見守っていた。

さらに、英語科のクラス担任を初めてするに当たり、クラスの生徒間に英語の実力の差があるので、比較的レベルの劣る生徒を集めて放課後に特別の指導をするなど、細かくクラス運営に気を配っていた。

(c) 大野は、(a)のように卒業学年の上に問題生徒の多かったクラスに引き続き、問題のある一年生の学級担任となったことにより、疲労の回復を図る機会を奪われたばかりか、逆に新たな疲労が加重される結果となった。

(2) 英語科

大野は、英語科のクラス担任であると共に、その授業も担当していたが、それには普通科の場合と異なる次のような負担が加重されていた。

(a) 英語科においては、英語は専門科目として三年間で三二単位(普通科では一七単位)のカリキュラムが組まれており、使用する教材も一般に市販・使用されている教科書、教材の他に、副読本や補助教材等として独自の教材を担当教員が中心になって作成し、これを使って学習効果を高める工夫がされていた。大野は、このような教材の研究や作成を熱心に行っていた。

(b) また、同校では英語を母国語とする外国人講師(アシスタント・イングリッシュ・ティーチャー、略称AET。昭和五九年度は二名)を依頼して、日本人の英語教諭とチームを組んで共同授業(すべて英語で行われ、生徒の理解が不足しているところを日本人教諭が理解を助けるために補足的な説明をし、授業を進行させる。)が行われていた。共同授業を担当する教諭は、AETの授業に対する姿勢をチエックするなど、事前の打ち合わせを綿密にする必要があり、この打合せも通常は英語で行われる。また、AETが新任の場合には、日本の生活になじんでもらうために、これに対する日常生活についての指導・助言もする必要があり、これは総務課で英語科の教諭が担当することになった。

大野は、これらについても積極的に行っていた。

(c) 昭和五九年四月、吉田高校では、生徒募集、あるいは来校者の案内用として保育科及び英語科の概要を表すパンフレットを初めて作成することになった。英語科のパンフレットは、吉田高校における英語科の存在及び特徴を具体的に中学生・中学校にアピールし、英語に興味を持ち、より深く学びたいと希望する生徒を一人でも多く英語科に集め、専門家を養成することを目的としており、同年六月一八日に開催される予定の吉田高校と地域の中学校教員との懇親会に間に合わせて完成される予定となっていた。その編集には英語科教員が当たることになっていたが、大野は、編集責任者であった英語科科長の神鷹教諭からそのとりまとめを依頼され、中心的な役割を果たすことになった。

大野は、授業の空き時間や自宅でこの編集作業を行ったが、パンフレットの作成は同校でも初めてのことであり、英語科教諭の間でもパンフレットの形式、レイアウト等の意見が一致せず、相当の精神的負担となっていた。そして、同年五月始めころには、保育科のパンフレットはほぼ出来上がっていたのに、英語科のパンフレットの作成作業は遅れており、大野は責任を感じていた。大野は、被災前日も自宅で午前零時ころまでその作業をすると共に、前記第二、一2(二)のとおり被災当日も内容、進行状況について同僚と打合せをしていた。

(d) 英語科では、毎年夏休みに一年生を対象に英語教諭全員とAETが参加して、会話等を基本的にすべて英語でこなし、英語劇やゲーム、スピーチを通じて英語の力を集中的に付けることを目的とするイングリッシュキャンプ(合宿)が行われていた。大野は、昭和五九年度は一七HRの担任として、その総括責任者の立場にあり、同年四月下旬ころから準備を行っていた。

(e) 吉田高校では、五月二四日から第一学期中間テストが予定されていたが、大野は、普通科・英語科・保育科の各学年の授業を担当していたから、五ないし六通りの試験問題を準備しなければならず、これらの問題は試験の一週間前である被災当日ころまでにはすべて完成されていなければならなかった。これは、一つまたは二つ程度の問題を作成すれば足りる普通高校の教諭の三倍の負担である。

(f) その他、大野は、静岡県下各高校の英語担当の教員で構成する「英語教育研究会」で実施する英語学力テストの問題作成委員になっており、新入生に対して同年四月に行われた学力テストの実施と採点に従事した。また、英語科に所属する教諭の勉強会にも積極的に参加していた。

(3) 校務分掌(総務課)

大野は、校務分掌では総務課に属していた。吉田高校では、前記のとおり、静岡県下で初めて英語科が併設された関係から、国際理解教育に重点を置き、国際交流など様々な活動に力を入れていたところ、国際理解教育は、総務課の分掌であったことから、同課に属し、かつ、英語科に属する教諭は、種々の学校行事に積極的に参加し、主催していかなければならない立場にあり、他の教諭に比較して相当に忙しかった。大野は、そのような教員の中でも、四〇代半ばの中堅どころの教員として、中心的な役割を果たしていた。

(a) 吉田高校では、国際理解教育の具体的事業として昭和四八年度以降、例年、米国カリフォルニア州にあるガーティナ高校と交互に約一か月の日程で留学生一〇人程度を交換留学させており、昭和五八年度は、六月にガーディナ高校から吉田高校に一〇人の留学生が受け入れられ、昭和五九年三月に吉田高校からガーディナ高校に生徒の派遣がされ、さらに、昭和五九年度も六月に同様にガーディナ高校からの生徒の受け入れが予定されていた。

派遣する生徒の選抜、準備教育、相手先の受入家庭の調査資料の検討、派遣先及び受入家庭に対する派遣生徒の資料の作成、相手先との打合せ、その他諸手続は、総務課でかつ英語科に属する二、三名の教員が担当する。右準備は昭和五八年度の場合、一〇月ころから開始され、派遣先に出かける翌年三月まで続けられるが、この間担当者は、学年末の事務処理、入学試験、新学年の準備等の多忙な時期にそれらの業務を免除されることなく、右派遣準備の事務を行わなければならない。

大野は、総務課・英語科の教員であるとともに、昭和五七年三月には、留学生を引率して渡米している経験を有するため、昭和五九年三月まで、同僚の田村・三浦教諭と生徒派遣の準備作業に従事していた。

そして、引き続き同年四月には、六月にガーディナ高校からやってくる留学生の受入準備、すなわち、PTAの中からホームステイの受入家庭を決めて連絡調整や指導を行い、留学生が来校した場合の指導方法を検討するなどの準備が始まり、大野は、放課後や日曜日もこれに時間を費やす状態であった。

(b) 同様にガーディナ高校以外からの長期・短期の外国人生徒の受入も頻繁にあり、それらの生徒の授業参加、社会見学の準備・引率等をするのも、総務課・英語科に属する大野らであった。さらに、同校には外国の教育関係者が視察に訪れることもしばしばあったが、来校者に対する接待、通訳等をするのは英語科の主任教員がするのが原則とされていたものの、授業等で差支えがある場合には、大野ら英語科教員がこれを行っていた。

(c) 吉田高校では、前記ガーディナ高校との交換留学等の国際理解教育の実践が一〇年を経過するのを期に、総務課及び英語科の教員の間から、この間の成果をとりまとめた記念誌を刊行しようという気運が生じており、昭和五九年四月五日の職員会議において、同年度の重点事業計画の一つとして、「一二年のあゆみ」を刊行することが正式に決まり、総務課が編集を担当することになった。

大野は、前記(a)のとおり米国への交換留学生の引率の経験があり、また、英語科の運営はもとより、総務課に属し、その分担が国際理解教育であったことから、右記念誌発行の資料収集担当となった。

同記念誌の完成は同年末の予定であったが、資料収集という性質上、大野は、同年の春休みを返上して写真整理を行わざるを得なかった。

(4) 学校行事

大野は、本件被災前に次のような負荷の高い学校行事に参加していた。

(a) 吉田高校では、毎年、新入生を対象に入学直後に集団宿泊訓練を行っているが、昭和五九年度も四月二三日から二五日までの間、静岡県周智郡春野町所在の「高校生山の村」で行われ、大野は、クラス担任としてこれに参加した。

大野は、同月六日の入学式直後から、担任クラスの生徒に係の割当てや班の編成を指導し、しおりの作成やスケジュールの編成等の準備をし、当日は、生徒と集団生活を共にしてその監督に当たり、スケジュール管理をするなど、時間に追われた。

生徒との信頼関係の形成の上では、意義のあることであるが、大野にとって年齢的に親子ほどに違う生徒と同じ生活をするということは、精神的にも肉体的にも多大な負荷となった。

(b) 本件被災の一〇日前である同年五月七日には、恒例の全校行事であるクロスカントリー大会が行われ、大野もこれに参加した。

これは、吉田高校近くの農協広場をスタートして牧ノ原台地を巡って戻ってくる全行程約二〇キロメートルのかなり起伏のあるコースを、全校生徒が五、六人の班に分かれて歩くというものであるが、ルールとしては、途中一〇カ所に設けられた立札に掲げられた問題に回答してその解答用紙を帰校後提出することになっていること、五カ所に設けられたチェックポイントを班員全員がそろって通過しなければならないことのほかは、コースを誤らずに所定時間までに学校に戻れば途中の行動は自由であったため、生徒が解放感から、単独行動に出たり、ごみを投げ捨てたりと様々な行動をとることが懸念された。右行事にあっては、全教員がチェックポイントでの確認、交通指導、救護、徒歩や自転車等での巡視・先導などの役割を分担し、生徒を叱咤激励し、あるいは、生徒の捨てるごみの始末等に当たった。

大野は、例年、生徒と一緒に右コースの全行程を歩いて、生徒らの指導に当たっており、この時も同様であったが、参加教員中、最年長であり、全行程に四時間一五分を要し、前年の三時間三七分に比してペースがことさらに遅かった。

大野にとって、前記の諸業務による疲労が蓄積した中で、このクロスカントリー大会に参加して全行程を踏破したことは、重度の肉体的・精神的負担となった。

(5) クラブ活動

(a) インターアクトクラブ

大野は、吉田高校においてインターアクトクラブを実質的に創始し、その顧問として、広く様々な活動を呼びかけていたが、必ずしも思うように活動がなされている状況ではなく、昭和五九年度には二年生六名しか部員が集まらないなど、その運営方法につき悩んでいた。

同クラブは週一時限の必修クラブであったが、その活動は地元のロータリークラブと密接な関係があることから、大野は、顧問として、月に一回程度島田ロータリークラブの会員宅に夜間出向いて打合せをしており、本件被災当時もこれを行っていた。

また、同クラブの活動に関連して、大野は三浦教諭と国際理解教育の仕事を行っており、吉田高校は、県下に当時三六校あった国際理解教育校の当番校であったことから、年に二回ある会合のため、日程の作成、通知等の事務を行わなければならなかった。

(b) 棋道クラブ

放課後に行われる課外活動であるが、大野は他の二名の教諭と交代で、週に三回程度指導に当たっていた。

(6) 自宅での状況及び春休みの状況

大野は、毎日、午前六時ころ起床し、同七時ころ朝食をとった後、同七時二〇分ないし三〇分ころ自宅を出て吉田高校まで一三、四キロメートルの道のりを四五分くらいかけて自転車で通勤していた。また、帰宅は午後七時三〇分ころから同八時ころの間であるが、同一一時ころになることもあった。帰宅後は、入浴・夕食後、副教材の作成・研究等に当たり、午後一二時ころに就寝していた。

また、昭和五九年の春休みは、三月二〇日から四月五日までの間であったが、大野はその期間中に六日間出勤し、その他の日は「研修」日として出勤を要しない日及び不勤日(日曜日)であった。大野は、出勤を要しない日には、自宅で読書、タイプ打ち、散歩などをして過ごすことが多かったが、三月三〇日には、かつて国際理解教育で世話になった米国人の母親が訪ねてきたため、英語科の同僚教員二名と自宅近くの観光案内をしたり、前記記念誌のための写真整理のために学校出入りの写真店に頻繁に出向いたり、日曜日にもガーディナ高校の生徒のホームステイ先の依頼のために生徒の家を回ったりしている。

(7) まとめ

(a) 以上の大野の公務は、生徒に対する責任が伴う教育現場における職務であって、教科、担任学級やインターアクトクラブの指導はもとより、その他の事務についても、遂行のための計画策定や事務の中心部分を任されるなど、他の者との代替性がほとんどない職務であり、そのために他の者によるサポートがほとんどなされず、しかも、記念誌や英語科パンフレットの編集、作成のような締切・期限のある職務も、立て込んで同時並行的に大野にのしかかっていたのであり、他の学科の教員と比較しても、また英語科の教員と比較しても、大野の負担は重く、その精神的負担は著しかった。これに集団生活訓練やクロスカントリーへの参加などによる肉体的負担が加わり、健康な者にとっても相当高度な肉体的・精神的負荷となっていた。

(b) しかも、大野の職務態度は、自ら補助教材の研究や作成をしたり、放課後に生徒の補習をしたり、何度も家庭訪問をするなど、面倒見がよく、仕事熱心で真面目、責任感が強かった。

このような大野の人柄も、前記多忙な職務遂行とあいまって、ストレス性疾患に罹患・発症しやすい因子となるものである。

(c) まして、脳動静脈奇形という基礎疾患を有する大野にとっては、より以上に過重な負担となったものである。

(三) 発症の機序

(1) 脳動静脈奇形は、先天的病変であるが、それが痙攣ないし破綻出血として発症する確率は必ずしも高くはない。大野を死に至らしめた右奇形の破綻出血は、奇形により正常な血管よりも薄くあるいは脆弱となっている異常血管部分がその血管にかかる圧力に抗しきれなくなることにより生ずるものである。すなわち、血管の弱さと血圧の高さとの相関関係によって破綻するものであり、また、一過性あるいは持続的な血圧の昂進が、血管を薄くし、またはこれを脆くしてその脆弱性を増悪させるものである。

(2) 大野については、前記(二)のような被災前年度からの、特に昭和五九年に入ってからの過重な公務による慢性的な疲労の蓄積及び責任感の強い本人の性格により、これがストレスとなって血圧を一時的または持続的に昂進させ、脳動静脈奇形の病変を増悪して破綻の危険性を高めていたものであり、発症当日の朝には、通常の公務に就くこと自体が危険なほどの状況にあった。

(3) また、前記一のとおり、大野は当日午後二時四〇分ないし五〇分ころに大出血発作を起こしたものと推認されるが、それに先立ち、朝もしくは昼休みころから既に強い後頭部痛を訴えていた。右頭痛は、大出血に先立つ警告的な小出血が発生していたと見るべきである。

このような場合、大出血発作を回避するためには、入院治療、少なくとも安静を保つことが必要であり、大野が昼休みの時点で安静を保って授業につかなければ、本件のような大出血発作は回避することができた可能性が大であり、少なくとも死亡することはなかった。

大野は、激しい頭痛を我慢して授業に臨んだが、頭痛を我慢すること自体がストレスとなり、血圧を上昇させる。これは本件大出血を生じさせるに十分なものであった。

(四) 公務起因性

以上によれば、一連の公務による負担、被災当日までの慢性的な蓄積疲労による負担と、被災当日の頭痛を押しての公務による負担が、大野の脳動静脈奇形という素因に作用して大出血発作を引き起こすに十分であったことは明白であるから、公務に関連して発症したことは明らかである。

そして、被告の主張を前提としても、右過重な勤務実態が継続したことにより累積した疲労が、大野の脳動静脈奇形血管の脆弱性を高め、当日の小出血発作による頭痛に耐えながらの授業続行による血圧上昇のため、右奇形部分がその自然的経過を超えて破綻出血したものであるから、公務が右発症の相対的有力原因となっていると評価できる。

2  被告の主張

(一) 公務上災害の認定基準

(1) 相当因果関係説

地方公務員災害補償制度は、使用者の支配下で労務を提供する過程において、その業務に内在する各種の危険が現実化し、被用者がそのために負傷し又は疾病にかかった場合等に、使用者が無過失責任に基づいてその危険が現実化したことによる損失を定型的・定率的に補償しようとする労働者災害補償制度と同性質の制度であり、社会保障制度とも民事上の損害賠償制度とも性格を異にするものである。

災害補償を実施すべき場合である地方公務員災害補償法三一条、四二条の「職員が公務上死亡した場合」とは、職員が公務に基づく負傷又は疾病に起因して死亡した場合をいい、この公務起因性は、公務との単なる関連をもって足りるものではなく、負傷又は疾病と公務との間には、相当因果関係があることが必要であり、その負傷又は疾病が原因となって死亡事故が発生した場合でなければならない。そして、右地方公務員災害補償制度の特質に照らせば、右相当因果関係は、民事責任における損害賠償の範囲を画する概念としてのそれとは異なり、無過失かつ定型的・定率的責任であることを前提に、公務に多かれ少なかれ内在ないし通常随伴する各種の危険が現実化したものとして、これを使用者たる地方公共団体に帰すべきか否か(公務上とすべきか否か)を適正かつ客観的に判断するための概念であって、公務が他の原因に比して「相対的に有力な原因」となっている場合に認められるものである。

(2) 地方公務員災害補償基金の認定基準の合理性

基金は、脳・心疾患の公務上外認定基準を定め、公務起因性を認めるためには、その発症の前に、日常業務に比較して特に過重な精神的・身体的に負荷になると客観的に認められる業務に従事し、かつ、この精神的、身体的負荷がその性質及び程度において、医学上当該疾病発生の原因となるに足りるものであり、かつ、それらの事態と当該疾病発生までの時間的間隔が医学上妥当なものであることが必要であるとの基準を採用している。

右基準は、基礎疾患を有する職員の脳血管疾患について、公務遂行が当該基礎疾患の増悪と発症にどの程度影響を及ぼすかについて医学的解明が極めて困難である現状においては、合理性を有するものであり、基金全体の補償体系からみても妥当な基準である。脳・心臓疾患については、その増悪・発症の原因となる有害・危険因子としては日常生活を含めた多様な出来事が指摘され、また、それら基礎疾患及びその促進因子は、公務に直接関連のないものが多く、公務遂行中の負傷、通勤災害及び職業病等、公務起因性が比較的明瞭である場合に対して、脳血管疾患や心臓疾患は、公務遂行が基礎疾患の増悪と発症とにどの程度の影響を及ぼすのかについて医学的解明が極めて困難であるから、当該職員の発症前の公務が日常のそれと比較して著しく過激でないような場合についてまで公務の遂行と発症との間の相当因果関係を肯定するときは、結果的に当該公務が発症に対して条件関係があるに過ぎない場合にまで相当因果関係の存在を認めてしまうという誤りを犯す危険がある。したがって、当該職員が発症前に、そういう職種にそういう分量・態様で従事していれば、発症してもなるほど無理はないと納得し得るような、日常業務に比較して質的、量的に特に過激な業務に従事したことにより、精神的、身体的に負担があったという客観的災害的な要因を前提として相当因果関係の有無を判断する以外に認定実務上合理的かつ明確な判断基準を見いだすことは不可能であり、また、このような解することが災害的要因が明瞭である公務遂行中の負傷、通勤災害及び職業病の公務上外の判断との権衡からいっても適当である。

(二) 大野の公務内容について

大野の職務内容及び勤務状況は、クラス担任・英語科・クラブ顧問・公務分掌としてのいずれの点からも、また、被災直前の二か月間の勤務状況においても、他の同僚職員らと比べても、高校教師としての通常の業務の範囲内にあり、質的・量的に特に過激又は異常なものではない。

すなわち、

(1) クラス担任の業務について

(a) 大野が被災前年度において三年生のクラス担任として従事した、通常のクラス指導以外の、進学・就職指導及びこれに伴う関係書類作成や就職決定後の生活指導の業務は、最終学年を担任する教員であれば誰でも担当する通常の業務であって、特に過重であったというものではない。

右担当クラスに原告主張のような非行生徒がいたとしても、その主張する事情においては、年間を通じて時々それら生徒に対する指導や家庭訪問等の業務に従事していたに過ぎないから、それをもって特に過重な業務であったとはいえない。

(b) 大野が被災年度に担当した英語科一七HRの生徒の中に、原告が主張するような素行上の問題を抱えた女子生徒や神経症の女子生徒がいたとしても、前者については、両親と相談するために家庭訪問をしたというのであり、その回数は特に多いとはいえない上、仮に、そのために帰宅時間が遅くなり或いは突然の施設入所等の事実があって、それがある程度の負担にはなったとしても、特にその業務が過重であったということはできない。

(c) 大野は被災前年度から二年連続してクラス担任となったが、静岡県下の県立高校においては、卒業年度のクラス担任をした翌年はクラス担任を外すという慣行は存しない上、吉田高校においても、大野と同様に前年度が卒業学年の担任であった同僚教員六人のうち、大野と同様に一年生のクラス担任になった者が二人、一年生のクラス副担任になった者が三名、他校へ転任した者が一名であり、特に異例なことではなく、高校教員としては誰でも経験し得ることであって、そのことをもって、大野の業務が過重であったということはできない。

(2) 英語科の業務について

大野が、英語科のパンフレット作成について中心的立場でその編集作業を行い、パンフレットの形式等について同僚教員との間で考え方が一致しない点があり、表紙の体裁などが決まらないことがあったとしても、このパンフレットはB四判に換算して三ページ程度の写真を中心とした簡易なものであり、通常は勤務時間内に同僚教員と共同で行っていたというのであるから、このパンフレットの編集業務が大野にとって特に過重な負担を強いていたものではない。

また、大野には、英語教育研究会で実施する英語学力テストの問題作成委員として、他校の教員と検討会を行う業務があったが、この業務では委員会へ出席するため、通常の勤務日に六回静岡市に出張したに過ぎない。

(3) 校務分掌(総務課)について

(a) 大野は、国際理解教育の一環として留学生の受入れ及び派遣に伴う業務あるいは外国人の来客があった場合に接待や通訳などの業務に従事することもあったが、こうした業務は、概ね勤務時間内に同僚教員と分担して従事していたものであって、大野のみに特に過重な負担が伴っていたとはいえない。

(b) 吉田高校では、記念誌「一二年のあゆみ」発刊の計画があったが、この編集作業が具体的に進行したのは、大野が死亡した数か月後の昭和五九年度第二学期に入ってからのことであって、原告の主張する同年度春休み当時は、未だ何ら具体化していなかった。したがって、大野が春休みに同誌のための写真整理を行っていたとしても、それは発刊計画の具体化していなかった当時であるから、大野が自発的に行っていたに過ぎず、しかも大野が行ったのは数回写真店へ出向いたというに過ぎないのであって、これが特に過重な業務であるとは到底いえない。

(4) 学校行事について

大野は、昭和五九年四月に二泊三日で行われた一年生の集団宿泊訓練に、生徒約三〇〇名を同僚教員一三人と共に引率して指導に当たったほか、同年五月七日には、校内クロスカントリー大会に生徒を指導しながら参加したが、これらの業務は通常の学校行事であって、大野はこれらの行事の運営に直接携わる役員ではなく、他の同僚教員と分担して従事したものであり、また、各行事ともに何ら問題なく順調に運営されたものであって、こうした業務が被災者にとって、精神的、肉体的に特に過重なものではなかった。

(5) クラブ活動について

大野には、クラブ顧問として、月一回程度の夜間に外出する用務があったとしても、その外のクラブ指導は、通常は勤務時間内に他の同僚教員と分担して行う業務であって、特に大野のみに精神的・肉体的に過重な負担が伴っていたものではない。

(6) 春休みの状況について

昭和五九年度春休み期間中に大野が勤務のため出勤したのは実質六日間であり、出勤しない日における研修の内容が原告主張のとおりであるとしても、米国人の母親の来訪に際して、同僚教員二人とともに大野の自宅近くを一日観光案内したに過ぎず、また、記念誌の写真整理などは、前記のとおり大野が自発的に行っていたもので、しかも数回写真店に赴いたに過ぎず、そのほかは、読書、タイプ打ち、散歩や友人との交際等、自宅で過ごすことが多かったことからすると、被災者がこの間に従事した業務が過重であったということはできない。

(三) 発症の機序及び公務起因性について

(1) 原告は、脳動静脈奇形の破綻の機序について、血管の弱さと血圧の高さとの相関関係によるとし、ことに一過性の血圧上昇のみを重視するが、適当ではない。

血管壁の脆弱化及びその破綻は、日常の血液循環において、脳血管に形成異常があるため、そこが過大な負荷にさらされ続けていることから生じるものであり、血圧上昇が破綻の一誘因になることはあっても、破綻原因のすべてではなく、このことは破綻による出血が日常生活のあらゆる状況下で発生する危険性があるとされていることからも明らかである。

(2) 前記(二)のとおり、大野の発症前の業務は、日常業務に比較して質的・量的に特に過激であったとはいえないところ、公務中に脳動静脈奇形の破綻による出血が発症しても、右奇形の形成自体は、先天的なものである上、その増悪は主として加齢による自然的要因に負うところが大きく、血管の脆弱化が限界に達した段階で日常生活のどの時点で起きてもおかしくない破綻出血が、たまたま公務中に生じたに過ぎないものといえるから、公務が発症について相対的に有力な要因になったと認めることはできない。

(3) なお、原告は、大野は、当日朝ないし昼ころに脳動静脈奇形からの小出血が発生し、これによる頭痛があったが、同人がそれを我慢しながら教壇に立ったことがストレスとなり血圧を上昇させて大出血を導く破綻を生じさせた旨主張する。

(a) しかしながら、前記一2記載の時間的経緯によれば、朝に始まった脳動静脈奇形の破綻による出血が、比較的小さな出血で、この出血が継続し、血液が脳室内の広範囲に徐々に広がり溜まるに従って頭痛が増し、吐気を生じ、意識を失うに至ったものと推認することができ、右発症は、まだこれといった業務に従事していない時点におけるものであり、公務に起因するものとは言い得ない。

(b) 仮に、原告主張のように小出血の後に大出血を来したのだとしても、それは脳動静脈奇形の破綻による出血という初発症状がたどる病状の自然的経過の中の出来事の一つに過ぎないし、一旦破綻した後の再出血は、いついかなる場合にも発症しうる高度の危険性を有するものであって、それが公務中に再発しても、公務は単なる機会原因に過ぎず、相対的に有力な原因となって発症したものとは認められない。

第三争点に対する判断

一  公務起因性の要件及び判定基準

1  地方公務員災害補償制度は、使用者の支配下で労務を提供する過程において、その業務に内在ないし随伴する危険が現実化し、被用者がそのために負傷し又は疾病にかかった場合等に、使用者の過失の有無にかかわらず、その危険が現実化したことによる被災者の損失を定型的・定率的に補償しようとする労働者災害補償制度と同趣旨の制度であり、そこにおける使用者である地方公共団体の責任は、危険責任ともいうべきものである。そうすると、地方公務員災害補償法三一条、四二条の「職員が公務上死亡した場合」とは、職員が公務に基づく負傷又は疾病に起因して死亡した場合をいうが、公務と死亡との間に公務起因性があるというためには、公務がなければ疾病が発症しなかったという条件関係が必要であることはもとより、負傷又は疾病と公務との間に、負傷又は疾病が業務に内在ないし通常随伴する危険の現実化であると認められる関係、すなわち相当因果関係があることが必要であり、その負傷又は疾病が原因となって死亡事故が発生した場合でなければならない。

したがって、公務起因性には、負傷又は疾病と公務との間に合理的な関連があれば足りる旨の原告の主張は採用することができない。

2  ところで、本件脳内出血のように、被災者に脳動静脈の先天的奇形や動脈硬化等の血管病変または動脈瘤等(以下「血管病変等」という。)の素因ないし基礎疾患等が存する場合には、その増悪の要因としては、公務による肉体的疲労や精神的緊張の存在も否定し難いものの、公務とは直接関連のない加齢や高血圧等の疾病のほか、日常生活上の多様な出来事が有害・危険因子となることが指摘されているところであり、また、右脳血管疾患は、右のような血管病変等が存する以上は常にその発症の可能性が否定し難いのである。

したがって、公務とそれ以外の原因が競合して本件脳出血のような脳血管疾患が発症した場合における公務起因性としては、医学的に見て右脳血管疾患の発症に公務が有意に寄与したとの条件関係が存することに加えて、相当因果関係として、当該脳血管疾患の発症について、公務に内在ないし通常随伴する危険がそれ以外の発症の原因と比較して相対的に有力な原因となったと認められることが必要であり、公務が単に当該脳血管疾患の発症の誘因ないしきっかけになったに過ぎない場合には、公務起因性は認められないと解するべきである。そして、公務が相対的に有力な原因であるというためには、公務の内容が、通常の公務に比較して過重であり、それに内在ないし通常随伴する危険の現実化と認められるに足りるものであること、換言すれば、公務が当該血管病変等を自然的経過を超えて急激に増悪させるに足りると認められる程度の過重負荷となっていることが必要であるというべきである。

ところで、右にいう相対的有力な原因を認めるに足りる公務過重性とは、当該公務に内在する危険性の徴表にほかならないのであるから、当該被災者において発症の原因となったということだけではなく、それが他の事案においても発症の原因となるであろうという程度のものとして、客観性を有することが必要であるというべきである。そして、右における公務過重性は、通常の勤務に従事して差し支えない程度の基礎疾患等を有するものの、現に特に支障なく通常の勤務に就いている職員を基準として(以下「基準職員」という。)、かつ、被災者の公務の内容が右基準職員の公務に内在ないし通常随伴する危険性を超える過重負荷であると認めるに足りるか否かを基準として、社会通念によって判断すべきである。何故ならば、健康状態に何ら問題のない職員を基準とし、かつ、その公務の内容をもって右過重負荷の基準とすると、基礎疾患等を有しながらその程度が通常勤務に従事して差し支えのないとされ、現に通常勤務に従事している職員についても、その過重負荷の程度の基準が健康な職員の公務内容とされることになり、そのような職員を補償の外に置くことになって、現にそのような職員が多く存在しているという社会の実情を無視することになり、他方、健康状態の異常の程度が大きく、通常勤務に適さない職員を基準とし、かつ、そのような職員の公務の内容をもって右過重負荷の基準にすると、当該疾病の発症が公務に内在ないし通常随伴する危険の現実化とはいえない場合にも一律に公務起因性を認めることとなり、いずれも前記制度の趣旨に照らして是認することができないからである。

二  本件発症の機序

1  脳動静脈奇形の病態及び発症の機序

前記第二、一3のとおり、大野の直接の死因は、脳幹出血による心不全であるが、これは大野の左前頭葉内側面に存した鶏卵大の脳動静脈奇形の脳室部分の血管が破綻し、くも膜下から脳室内全体に及ぶ著明な大出血をもたらしたことによって引き起こされたものである。

ところで、大野は、被災年度には、人間ドックでの受診を希望していたことから、尿検査(結果は正常)以外の健康診断を受けなかったが、被災前年度までの健康診断の結果は次のとおりであり、全く平常の生活でよく、医師による直接、間接の医療行為を必要としないものとされていた。

大野の体重は、昭和四九年以来五七ないし五八キログラムで安定し(身長一七〇センチメートル)、血圧は、昭和五一年度には最高血圧が一四〇と測定されたことがあるものの、それ以外の年度では概ね最高血圧は一二〇前後、最低血圧も七〇ないし八〇であり、被災年度前二年間をみると、昭和五七年度は最高血圧が一二二、最低血圧が八六、昭和五八年度は最高血圧が一一八、最低血圧が七〇であって、その余の検査でも特に異常は存しなかった。しかし、脳動静脈奇形の存在については、診断対象とはされていないことから、知る由もなかった。

以上によれば、大野には右脳動静脈奇形のほかには、脳出血等を招来するような特段の基礎疾患の存在を窺わせるような事情はなかったから、大野の死亡の原因は、専ら右脳動静脈奇形の増悪及び破綻出血の発症に帰着するものということができる。

そして、証拠(〈証拠・人証略〉)によれば、次の事実が認められる。

(一) 脳動静脈奇形は、胎生早期における脳血管発生の途上で毛細血管が正常に形成されなかったために形成される血管奇形であり、動脈と静脈が毛細血管を経ることなく、直接吻合したものである。脳動静脈奇形部の血管は、大量の動脈血が流入するため、著しく拡張・蛇行して異常な血管塊を形成し、血管壁は過大な負荷にさらされて変性し、脆弱化する。そのため、血圧の変動など循環動態の変化に伴って容易に破綻し、出血を起こしたり、血流が奇形部分を通過して周辺の正常組織に循環するべき血流が不足し、酸素欠乏に陥ることにより痙攣を起こすなどの症状を呈する。

(二) 脳動静脈奇形による破綻出血の発症は、二〇歳から五〇歳までに多く、三〇歳代が最も多いが、これは脳動脈瘤の好発年齢のピークが五〇歳代であることと対比して、二〇歳も若い。

(三) また、発症率については、くも膜下出血は、脳動静脈奇形の六一パーセントにみられ、三〇歳までに五四パーセントが起こり、致死率が一〇パーセントであるとするもの(〈証拠略〉)、脳動静脈奇形の六八パーセントに出血が、二八パーセントに痙攣発作が認められ、成人の死亡率が五〇ないし五三パーセントであるとするもの(〈証拠略〉)、未破裂の脳動静脈奇形を追跡調査(最低四年、平均八・二年)した結果では、一八パーセントに破綻をみ、いつ破綻するか否かの予測には、奇形の大きさ、痙攣・高血圧の有無は関係がないとするもの(〈証拠略〉に引用のブラウン医師の報告)、破綻した場合、初回出血による死亡率は一〇パーセント、再出血の危険性は二〇パーセント、再出血による死亡率は一三パーセント、その後の出血による死亡率は二〇パーセントであるとするもの(〈証拠略〉に引用のグラフ医師の報告)がある。

これらによれば、発症率及び発症した場合の致死率ともに比較的高率であり、その予後も再発の危険が高いなど楽観できないというべきである。

(四) なお、破綻出血がどのような日常活動との関連で発症したかについては、何らかの緊張時に発症したものは三六パーセントにとどまり、三六パーセントが睡眠中、二八パーセントが特に訴えずというものであったとする報告例もある(〈証拠略〉に引用されるロックスレー医師の報告)が、他方、睡眠時間が人の生活時間の三分の一程度を占め、その間もいびき・寝返り動作など必ずしも常に安静というわけではないこと、日本においてくも膜下出血の発症について同様の調査をした結果、なんらかの緊張時の発症が六九パーセントを占めたという報告例(〈証拠略〉に引用の小松医師の報告)も存することから、日常生活におけるあらゆる動作あるいは感情の起伏等によることを含む、なんらかの緊張に伴う血圧の昂進や静脈圧、脳圧等の血管壁に作用する内圧の変化が破綻出血の契機になるものと推認することはできる。

(五) 他方、脳動静脈奇形の増悪は、胎生期に起因する異常血管が、脳の成長と共に血流が増大することから拡大するものであり、その発達自体には血圧の高い低いは関わりはなく、また、異常血管塊の蛇行部分は、局所的には心音だけで脆弱化することも考えられ、このような箇所が異常血管塊の中に一つでも存すれば、その部位からの出血の危険が高まる。そして、前記(三)のとおり、高血圧が未破裂の脳動静脈奇形の予後の破綻出血の発症率を左右しているものとも断じ難い。

(六) (四)及び(五)によれば、血圧の昂進は、破綻出血発症の契機及び破綻の原因となる血管壁の脆弱化の重要な要因となっていることは否定できないが、それだけが奇形の増悪を促し、破綻出血を惹起する決定的要因であるということはできない。

(七) 脳動静脈奇形が致死的破綻に至らずに発見された場合、その治療方法としては、奇形部の摘出術ないし異常血管部への塞栓術等が根治療法としては考えられる。しかし、前者は存在部位によっては手術のリスクが大きかったり、重大な障害が残る危険があり、このような場合には採用することができない。後者については、脳血管造影により、患部の部位・形状等を特定する必要がある。

他方、医師としては、右のような根治術を勧めることが前提であるが、その増悪を促進し、また、破綻出血の発症をもたらす要因の一つである血圧の昂進を防止するという観点から、日常生活においては、塩分のとりすぎや肥満の防止、精神的・肉体的ストレスの回避を指導する。

2  本件大野の脳動静脈奇形の発症の状況

大野の脳動静脈奇形は、左前頭葉内側面に存し、ほぼ鶏卵大であり、その脳室側部分の血管が破綻したこと(前示)、右奇形は深在性のもので、脳室の壁を伝わる血管に形成されていたこと、これが破綻してくも膜下から脳室内全体に及ぶ著明な大出血をもたらしたことは、解剖を担当した(人証略)により明らかに認められるが、奇形の中で具体的に破綻した血管壁の箇所・状況は、解剖によっても把握することは困難であって、大野の脳動静脈奇形の増悪の程度、血圧の加功の程度等を剖検結果に基づいて認定することはできない。

(一) この点、脳動静脈奇形部分の血管壁の脆弱化には、それが唯一決定的な要因であるとまでは言えないとしても、血圧が関与していると認められ、また、血圧等による血管壁に作用する内圧の変化が破綻出血の契機になっていると認められるところ、(人証略)は、医師の立場としては、右奇形を有する患者に対しては、職業上のストレス等による血圧の上昇を避けるため、責任の重い仕事は避け、補助的・補佐的な仕事に就くことを勧め、高校の教諭は一般に不適な仕事であるとしている。

(二) また、前記第二、一2及び3に認定の大野の発症に至る当日の勤務状況、言動及び死因並びに(証拠・人証略)によれば、大野は当日登校後、朝から頭痛を訴え、特に昼休みころからは、激しい後頭部痛を訴えていたものであるが、これはそのころに脳室部分に露出している脳動静脈奇形から小規模な出血発作が生じ、これが脳室から小脳の後ろに回り激しい痛みを生じさせたという、くも膜下出血の形態をとる出血発作の存在が推測されること、そして、痛みはそれ自体ストレスとして血圧を上昇させる要因となること、また、くも膜下出血、特に脳動静脈奇形や脳動脈瘤に起因するものの場合、数時間から二四時間以内に大出血を起こす危険が高いことが認められる。

(三) 右のうち、朝ないし昼にかけての前駆症状としての小出血については、その契機がいかなるものであるかについては明らかでない。他方、致命的出血となった午後二時四〇分ころの大出血については、右のとおり激しい頭痛を押しての授業がストレスとなって血圧を昂進させるものと認められること、(人証略)は、医師としては、このような頭痛を訴える患者に接した場合、まず安静を指示し、CTスキャン等の検査を施してその原因を探索する一方、血圧が高い場合には降圧剤を注射するなどの対応をとるが、右頭痛の段階で安静にし、治療を受けていれば、本件のような大出血の発症を防止することができた可能性も否定はできないとしており、大野本人も、激しい頭痛という異変を感じており、自主的な治療の契機も存在していた。

これらによれば、少なくとも、公務遂行が大野の発症の条件の一つとなっていることは否定することができない。

六(ママ) 公務の過重性

しかしながら、前記一のとおり、疾病の発症につき公務起因性が認められるためには、右条件関係をもって足りるものではなく、当該公務に通常内在ないし随伴する危険が当該疾病の発症に相対的に有力な原因となったと認められることが必要であり、この認定のためには、前記基準職員を基準として、〈1〉疾病の発症前及び発症時の公務内容が同職員に過重負荷となって、〈2〉これにより当該疾病を発症させたものと判定される必要があるから、この点について検討する。

1  発症当日の業務

大野は、本件発症当日、前記第二、2に認定のとおり、平常の内容の英語授業に従事し、あるいは空き時間に英語科パンフレットの打合せを同僚教諭としていたというものであり、日常の業務と特に異なる事情は認められない。

なお、原告の当初の主張中には、右パンフレット作成の打合せ時に、同僚教諭の一人と口論になった旨の部分があるが、そのような事実を認めるに足りる証拠はない。

2  発症前日までの公務の実態

原告は、大野の発症前の過重な公務の負荷に伴うストレスのため、血圧の昂進を来たし、それが同人の左前頭葉内側面に存した鶏卵大の脳動静脈奇形の増悪(破綻の危険性を増大する血管壁の菲薄化)を促進し、本件発症当日には、わずかな血圧の変動で小出血を発症し、さらにそれが致命的な大出血に至ったとして、その公務起因性を主張する。

そこで、発症前日までの大野の公務が過重なものであったかをみるに証拠(〈証拠・人証略〉)及び弁論の全趣旨によれば次の事実が認められる。

(一) クラス担任

(1) 大野は、本件被災前年度(昭和五八年度)は、普通科三五HR(男子一五人、女子三二人)の学級担任であった。卒業を控えた最終学年であるが、吉田高校の場合は、生徒の進路が就職及び進学の双方にわたることから、就職・進学等の進路指導やこれに伴う内申書類の作成、父兄との面接、さらに就職希望の生徒については内定後の生活指導等、多岐にわたる事務を通常のクラス指導の他に処理していた。

さらに、当該学級には、カンニング、喫煙等の問題行動を起こし、謹慎処分を受けた生徒が一年間に七名に上った。大野は、その都度、こうした生徒に対する指導や家庭訪問を実施していた。

(2) 大野は、前記第二、一1のとおり、本件被災年度は英語科の一七HRの学級担任となった。

このクラスには、入学早々、素行上の問題を抱えた女子生徒や授業中に突然目がチラチラしたり吐気や頭痛がするなどの症状を訴える神経症の女子生徒がいた。

右素行上の問題を抱えた女子生徒については、その両親が同生徒を兵庫県にある宗教法人が経営する施設に入所させることを希望していたが、大野は、学業の遅れが生じることからできるだけ在学させて対応を考えようとしており、意見が一致しなかった。大野は、同生徒の素行上の問題、施設に入所させることの是非、入所させるとした場合にその時期はいつ頃が適切か等について、両親や右宗教法人の役員と相談するため、同年四月以降、週二回程度、家庭訪問を実施し、殊に五月六日から一〇日の間には三回ないし四回の家庭訪問を行っていたとされるが、その具体的日時等は不明である。同生徒の家庭は、吉田高校から約九キロメートル離れた島田市内にあり、自転車を利用していた大野は、家庭訪問からの帰宅が午後九時から同一〇時ころになることもあった。なお、この女子生徒は同年五月一三日に突然施設に入所してしまい、大野はある程度の精神的衝撃を受けたことが窺われる。

他方、右神経症の女子生徒については、養護教員と連絡を取るなど、健康管理に配慮しつつ、生徒の症状を見守っていた(なお、同生徒について家庭訪問等の特段の指導をしていたことを認めるに足りる証拠はない。)。

また、英語科のクラス担任をするに当たり、クラスの生徒間の英語力の格差を埋めるため、英語力に後れをとる生徒を集めて放課後に特別の指導をしていたが、その詳細は明らかではない。

(二) クラブ顧問としての業務

大野は、昭和五八年、五九年とも棋道クラブとインターアクトクラブの顧問としてその指導に従事していた。棋道クラブは、放課後に行われる課外活動であるが、大野は他の二名の教諭と交代で、週に三回程度指導に当たっていたもので、特に問題となるような課題は見あたらない。

他方、インターアクトクラブは、週一時限の必修クラブであり、昭和五八年度は大野が一人で担当していたが、昭和五九年度は他の教員と二人で指導する体制となった。その活動は地元のロータリークラブと密接な関係があることから、大野は、顧問として、月に一回程度島田ロータリークラブの会員宅に夜間出向いて打合せをしていた。同クラブの活動については、必ずしも思うように活動がなされている状況ではなく、昭和五九年度には二年生六名しか部員が集まらないなど、その運営方法につき悩んでおり、教頭などとしばしば相談をしていた。

(三) 授業

(1) 大野は、昭和五九年度は、週一七時限の英語授業及び週一時限の必修クラブ活動を担当していたが、これは英語教諭の平均的な授業時間数である。

うち、大野は担任学級で英語科の一七HRの総合英語を週五時間担当し、その余は保育科(二六HR、三六HR)及び普通科(一二HR)の英語授業であった。

(2) 英語科の授業においては、英語は専門科目として三年間で三二単位(普通科では一七単位)のカリキュラムが組まれており、使用する教材も一般に市販・使用されている教科書、教材の他に、副読本や補助教材等として独自の教材を担当教員が中心になって作成し、これを使って学習効果を高める工夫がされていた。また、同校では英語を母国語とする外国人講師・前記AETを依頼して、日本人の英語教諭とチームを組んで共同授業を行っていたが、前記総合英語は、このような共同授業を含むものであり、授業はすべて英語で行われ、生徒の理解が不足しているところを日本人教諭が理解を助けるために補足的な説明をし、授業を進行させるというものであった。

そこで、英語科の授業を担当する教諭は、右補助教材の作成・研究や、AETとの共同授業の事前の打ち合わせ(通常は英語で行われる。)を行うなど、普通科の英語授業の準備にはない準備をする必要があった。

大野は、これらについて積極的に行っており、補助教材の研究などを帰宅後就寝までの時間に行っていた。

(3) 吉田高校では、五月二四日から第一学期中間テストが予定されており、教員間では一般に試験問題は実施日の一週間前ころには準備を終えているのが通常であるとされていたことからすると、大野は、本件被災の直前ころにはその準備をしていたものと推認される。

(4) イングリッシュ・キャンプの準備

吉田高校英語科では、毎年夏休みに一年生を対象に英語教諭全員とAETが参加して、会話等を基本的にすべて英語でこなし、英語劇やゲーム、スピーチを通じて英語の力を集中的に付けることを目的とするイングリッシュキャンプ(合宿)が行われ、同キャンプにおけるスピーチコンテストは、静岡県や島田市などで行われる英語弁論大会の出場者選考の機会ともなるものであり、大野は、昭和五九年度は一七HRの担任として、その総括責任者の立場にあった。大野は、その準備の一貫として、同年四月下旬ころから、生徒がスピーチコンテストで発表する英作文の添削等の作業を開始していたことが窺われるが、その内容はつまびらかではない。

(四) 校務分掌(総務課)

大野は、校務分掌では、昭和五八年、五九年とも、PTA、同窓会等の渉外、国際理解教育、校内誌の編集等を担当する総務課に属し、自らは国際理解教育を主に担当していたが、吉田高校では、英語科を専門科目と位置付け、国際交流など様々な活動に力を入れていたことから、国際理解教育を目的とする事業や行事が多く設けられていた。

(1) 交換留学生の派遣及び受入れ

吉田高校では、前記第二、一1のとおり静岡県下で初めて英語科が併設された関係から、国際理解教育に重点を置いていたが、その具体的事業として昭和四八年度以降、例年、米国カリフォルニア州にあるガーディナ高校と交互に約一か月の日程で留学生一〇人程度を交換留学させており、昭和五八年度は、六月にガーディナ高校から吉田高校に一〇人の留学生が受け入れられ、昭和五九年三月に吉田高校からガーディナ高校に生徒の派遣がされ、さらに、昭和五九年度も六月に同様にガーディナ高校からの生徒の受け入れが予定されていた。

派遣する生徒の選抜、準備教育、相手先の受入家庭の調査資料の検討、派遣先及び受入家庭に対する派遣生徒の資料の作成、相手先との打合せ、その他諸手続は、総務課でかつ英語科に属する二、三名の教員が担当していた。右準備は昭和五八年度の場合、一〇月ころから開始され、派遣先に出かける翌年三月まで続けられた。大野は、総務課・英語科の教員であるとともに、昭和五七年三月には、留学生を引率して渡米している経験を有するため、昭和五九年三月まで、同僚の田村教諭を中心として、三浦教諭と共に生徒派遣の準備作業に従事していた。

そして、引き続き同年四月には、六月にガーディナ高校から来訪する留学生の受入準備、すなわち、PTAの中からホームステイの受入家庭を決めて連絡調整や指導を行い、留学生が来校した場合の指導方法を検討するなどの準備が開始され、これにも大野は従事していた。

(2) 視察者の応対等

同様にガーディナ高校以外からの長期・短期の外国人生徒の受入も頻繁にあり、それらの生徒の授業参加、社会見学の準備・引率等をするのも、総務課・英語科に属する大野らであり、さらに、同校には外国の教育関係者が視察に訪れることもしばしばあったが、来校者に対する接待、通訳等をするのは英語科の主任教員がするのが原則であったが、同教諭が授業等で差支えがある場合には、大野ら英語科教員がこれを行っていた。

(3) 学力テストの作成・採点

大野は、静岡県下各高校の英語担当の教員で構成する「英語教育研究会」で実施する英語学力テストの問題作成委員になっており、新入生に対して同年四月に行われた学力テストの実施と採点に従事した。

(4) 英語科パンフレットの編集

昭和五九年四月、吉田高校では、生徒募集、あるいは来校者の案内用として保育科及び英語科の概要を表すパンフレットを初めて作成することになり、同年六月一八日に開催される予定の吉田高校と地域の中学校教員との懇親会に間に合わせて完成される予定となっていた。大野は、英語科科長の神鷹教諭からそのとりまとめを依頼され、中心的な役割を果たしていた。大野は、授業の空き時間や自宅でこの編集作業を行っていたが、パンフレットの作成は同校でも初めてのことであり、英語科教諭の間でもパンフレットの形式、レイアウト等の意見が一致せず、同年五月始めころには、保育科のパンフレットはほぼ出来上がっていたのに、英語科のパンフレットの作成作業は遅れており、大野は、帰宅後も自宅でその作業をすると共に、前記第二、一2(二)のとおり被災当日もその内容、進行状況について同僚と打合せをするなど、精力的に取り組んでいたが、被災当日に至るも、表紙の体裁などが決定するには至っていなかった。

しかし、右パンフレットは、B四判に換算して三ページ程度の写真を中心とした簡易なものであり、同年六月末に完成した。

(5) 記念誌の編集

吉田高校では、前記ガーディナ高校との交換留学等の国際理解教育の実践が一〇年を経過するのを期に、総務課及び英語科の教員の間から、この間の成果をとりまとめた記念誌を刊行しようという気運が生じており、昭和五九年四月五日の職員会議において、同年度の重点事業計画の一つとして、「一二年のあゆみ」を刊行することが正式に決まり、総務課が編集を担当することになった。

大野は、前記(1)のとおり米国への交換留学生の引率の経験があり、また、総務課では国際理解教育を担当し、英語科の運営にも関与していたことから、右記念誌発行に強い関心を持っていたものと窺われ、右刊行の決定に先立つ昭和五九年の春休みころには、自主的に写真整理等の作業を行っていた。

しかし、右経過からも明らかなように、当時は記念誌の計画はまだ具体化しておらず、構想が固まりつつある準備段階であり、その編集作業が具体的に進行したのは、大野の死後数カ月を経た同年二学期に入ってからであり、その完成は、翌昭和六〇年四月になってからであった。

(六)(ママ) 右(一)ないし(五)(ママ)までの日常業務の他、昭和五九年三月中旬から本件被災当日までの間において大野が従事した業務等は、次のとおりである。

(1) 吉田高校では、昭和五九年三月一九日に昭和五八年度の終業式が行われ、翌三月二〇日から四月五日までの一七日間がいわゆる春休みであった。

大野は、この間、三月二一日及び二二日に新入生オリエンテーション及び健康診断のため、同月二六日及び二七日に年度末職員会議のため、同月三一日に転出職員の離任式のため、さらに、四月五日に転入職員の紹介、新年度事業計画等の職員会議のためにそれぞれ出勤したほかは、出勤を要しない「研修日」及び不勤(日曜日)であった。

大野は、この間、三月二五日には教え子の結婚式に招待されて静岡市に出かけ、同月三〇日には、かつて吉田高校の国際理解教育で世話になった米国人の母親が訪ねてきたため、吉田高校の同僚英語教員と共に自宅近くの観光地を案内し、四月四日には来訪した知人と終日過ごすなどしていたが、出勤を要しない日には、自宅で読書、タイプ打ち、散歩等をして過ごすことが多かった。また、前記記念誌に掲載するための写真整理なども行っており、学校近くの写真店に数回出向いている。

(2) 四月六日から新学期が開始し、前記担任クラス一七HRの指導、英語科パンフレットの編集等の業務にも従事することとなったが、その他、次のような学校行事に参加した。

(a) 新入生集団宿泊訓練

吉田高校では、毎年、新入生を対象に入学直後に集団宿泊訓練を行っているが、昭和五九年度も四月二三日から二五日までの間、静岡県周智郡春野町の「高校生山の村」で行われ、大野は、クラス担任として、同僚教員一三名と共に生徒を引率してこれに参加した。

これは、野外炊飯、樹木の間伐、枝打ち、オリエンテーリング、キャンプファイヤー、討論会などを集団で行うものであり、大野は、同月六日の入学式直後から、担任クラスの生徒に係の割当てや班の編成を指導し、しおりの作成やスケジュールの編成等の準備をし、当日は、生徒と集団生活を共にしてその監督に当たった。

(b) クロスカントリー大会

同年五月七日には、恒例の全校行事であるクロスカントリー大会が行われ、大野もこれに参加した。

同大会は、吉田高校近くの農協広場をスタートして牧ノ原台地を巡って戻ってくる全行程約二〇キロメートルの起伏のあるコースを、全校生徒が四、五人の班に分かれて歩き、途中一〇カ所に設けられた立札に掲げられた問題に回答してその解答用紙を帰校後提出するほか、二カ所に設けられたチェックポイントを班員全員がそろって通過しなければならないが、コースを誤らずに所定時間までに学校に戻ればよく、途中の行動は自由というものであった。

大野はこの行事の運営に直接携わる役員ではなかったため、例年どおり、生徒と一緒に右コースを全行程歩いて、生徒らの指導に当たったが、全行程に四時間一五分を要し、前年の三時間三七分より時間を要した。

(3) 勤務時間及び休暇等

本件被災当時、大野の勤務時間は、毎週、月曜日から金曜日までが午前八時二〇分から午後五時まで、土曜日が午前八時二〇分から午後〇時四五分までであり、年次有給休暇は、昭和五八年度は一一日一時間を、昭和五九年度(五月一六日まで)は、一日三時間をそれぞれ取得している。

大野は、通勤には自転車を利用しており、午前七時二〇分ないし三〇分ころ自宅を出て吉田高校まで一三、四キロメートルの道のりを四五分くらいかけて通勤していた。なお、雨天時には、バスを利用していたが、その場合の所要時間は片道約三〇分であり、同人は、通勤届ではバス利用と届け出ていた。なお、大野は、前任校である島田工業高校在勤中も自転車で約一時間一〇分かけて通勤し、また、吉田高校に転勤した後は、毎朝二〇ないし三〇分程度のジョギングをすることを日課としていたが、昭和五八年ころからはそれを止めた。

3  公務内容の過重性の評価

(一) 発症当日の公務の内容は、なんら日常業務と異なるところはないから、特に過重なものであったと認めることはできない。

(二) 学級担任及び英語科教諭としての業務は、その地位にある教諭ならば、通常誰でも従事する性質のものであって、格別同僚教諭と異なって特別の負担を強いられたとまでは認められない。

すなわち、前年度の担任学級は、卒業を控えた三年生であり、かつ、非行等の問題を抱えた生徒がいたというのであるが、進路指導及びその関係の書類の作成は、三年生を担任として受け持つ教諭であれば、誰しも従事する業務である。さらに、問題生徒に対し適宜家庭訪問等を行い指導することも、前記のとおり処分対象者が年間七名に上ったこと等に照らし、かなりの頻度で問題が勃発したこと、また、後記(七)の大野の性格等に照らし、同人が熱心に生徒指導に当たっていたことは、いずれも推認するに難くないが、常時その処理に追われていたとまでは認められないのであり、また、同人は当時教員歴二〇年を有する経験豊かな教諭であることを考慮すると、特に過重な負担であったとはいえない。

被災年度についてみるに、大野が、被災前年度から引き続いて学級担任を担当したことについても、それが引き続き学級担任を持たなかった教諭と比較すれば確かに負担が重いということができるが、しかし、二年連続して学級担任を担当すること自体が直ちに過重負荷であるということはできない。

ところで、大野は、前記2(一)(2)で認定のとおり、一七HRの学級担任として、素行上の問題を抱える女子生徒の指導を巡って、家庭訪問を四月以来繰り返し行い、五月六日から一〇日までの間には三、四回赴くなどは集中的に行っていたが、その際にも自転車を利用し、吉田高校から約九キロメートル離れた同生徒宅を訪れ、その後同宅から学校前を経由して帰宅していたこともあって、帰宅時間が午後九時ないし一〇時となることもあり、その後、右生徒は五月一三日に突然施設に入所してしまい、大野はある程度の精神的衝撃を受けたのであるが、右によれば右の家庭訪問は、基準職員の公務として相当の負荷であるということはできるが、その家庭訪問の具体的な回数や訪問先での所要時間等は必ずしも明らかではなく、これをもって直ちに特に過重な負荷であるということはできない。

(三) 英語の授業の準備についても、担当授業時間は、週一七時間で、吉田高校に勤務する教員の平均的な担当授業数であること、英語科の指導に当たっていた英語教諭は同様の業務を処理していたものであり、また、大野にとっても、英語科の担任は被災年度が初めてであったにしても、英語科の授業の担当は、同年度が初めてというわけではない(〈証拠・人証略〉によれば、大野は前年度も英語科一七HRのLL演習を担当していたことが認められる。)上、英語科が設置されて以来一〇余年を経過し、その授業の運営の方法等についても一応確立されていたことが窺われるのであり、特に過重な負担ということはできない。

(四) さらに、校務分掌についても、交換留学生の派遣・受入や見学者等の応対などに当たっては、総務課で英語科の運営に携わる二、三名の教諭の負担が、他の教諭に比して重かったものと評価することはでき、また、大野がその中で中心的な役割を果たすことも少なくなかったということも窺われるが、同人は既に二年前に留学生を米国に派遣した際にこれを引率した経験があるなど、この事務に精通していたものと窺われるほか、事務処理自体は、いずれもこれらの教諭間で事務の分担が図られていたものと認められ(〈人証略〉)、大野のこれらの事務の負担が殊更に重いものであったとまでは認めることはできない。さらに、これらの事務処理のために休日等をこれに充てたり、夜間にまで及んで処理することが常態化していたと認めるに足りる証拠もない。

(五) また、記念誌編集のための写真整理、英語科のパンフレットの作成についても、前者はまだ作業が具体化していない段階における自発的準備作業にとどまること、後者については、その作成の中心的役割を担わされ、作業の遅れについて責任を感じ精神的負担となっていたことは窺われるものの、前記第二、一2(二)のように、通常は勤務時間内に同僚教諭と相談しながら進められていたこと並びに前記2(四)(4)のパンフレットの規模及び内容等に照らし、これをもって過重な負荷というに足りない。

(六) 最後に、集団合宿訓練及びクロスカントリー大会は、通常の学校行事であり、大野は他の同僚教員と共に役割を分担しあってこれに参加していたものであること、クロスカントリー大会については、例年数人の教諭が生徒と共にコースを歩いていたことが認められること(昭和五八年度は大野を含めて八名の教諭がコースを歩いている。〈証拠略〉)、その職務の性質上、重点は遅れがちの生徒の指導にあり、速歩が要求されるものではないと解されること、いずれの行事も参加中に特段の事故等の発生はなく、無事に終了することができたものであること等に照らすと、確かにクロスカントリー大会については、相当程度の負荷であると認められるものの、基準職員を前提としても、やはり過重な負荷とまではいえない。

なお、原告は、原告及び代理人らが右クロスカントリー大会のコースを踏破してその血圧及び脈拍の変化を計測した結果(〈証拠略〉)に基づき、クロスカントリー大会に参加したことが重い身体的負荷に該当する旨を主張するが、右血圧及び脈拍の変化が存するとしても、これが前記基準職員において何らかの脳・心臓疾患の発症を招来する危険性の有無は、明らかであるとはいえない。

(七) 総括

大野の仕事ぶりは、能率良く事務処理をこなすというものではないが、仕事に取り組む姿勢は熱心かつ丁寧で責任感が強いタイプであると評価されていた(〈人証略〉)。これは、公務の遂行について精神的負荷を強める要因と解することができ(〈証拠略〉)、かつ、法の予定する職員の備えている特性として、異常な事情であるとはいえないから、前記基準職員を基準に公務の過重性を検討する場合に、考慮に入れるのが相当である。

しかしながら、この点を考慮にいれても、右にみたとおり、大野の発症前の業務内容は、全体として高等学校の英語教諭としての日常業務の枠を超えるものではなく、いわゆる春休み中には研修日として相当期間日常の業務から離れる機会も存したこと、かつ、被災年度についてみても、特に新規に未開拓の領域の職務を担当するに至ったなどの特段の事情は認められないのであり、特に過重なものということはできない。

なお、大野自身も、クロスカントリー大会において、運営に関与する役員ではなく、職務上の必然というわけではなかったのに、生徒と共に全行程を歩いていること(なお、前記のように所要時間が前年度よりも多くかかっていることについては、これが同人の体調によるものであるのか、生徒の指導等に時間を割かれたためであるのかについては、証拠上つまびらかでない。)、バスによる通勤の方が時間的にも体力的にも負担が少なかったと認められるのに(前記2(六)(3))、自転車通勤を本件被災当日まで継続していたこと等に照らせば、原告が主張するように、大野についてこれらの公務により疲労が極度に蓄積していたものと認めることはできない。

4  また、そのような公務の負荷が大野の脳動静脈奇形を自然的経過を超えて急激に増悪させたかという観点から検討するに、前記のとおり、脳動静脈奇形の破綻の発症率は、それ自体相当に高率である上、発症するか否かの予測に必ずしも高血圧等が関係しているわけではないこと(前記二1(三)、(五)及び(六))、前記のとおり定期健康診断における大野の血圧はいずれも正常値であり、いわゆる高血圧症等の異常所見はないこと、このような者の場合は、血圧の変動も通常は極端には及ばないと考えられること(〈証拠略〉)、そうであれば、公務外の日常生活上の動作や感情の起伏等による血圧の変動と有意の差を見いだしがたいこと、(人証略)は、ストレス等による血圧昂進が奇形の成長因子となると推察し、前記二2(一)のとおり高校の教諭等の職業は、脳動静脈奇形が存する者の職業としては適さないとし、大野についても、本件発症前の集団合宿訓練やクロスカントリー大会への参加及び連続した家庭訪問等が右奇形を増悪させた要因であると考えるべきであるとしているが、同証人は、他方で、前記のとおり、脳動脈(ママ)奇形は、職業生活上のストレス等の外、循環自体が増悪の要因であり、かつ、日常生活上のあらゆる動作、感情の起伏によって生ずる血圧を含む内圧の変化も増悪、破綻出血の原因となりうるものであって、大野の病状からすれば既にいつ破綻出血をしてもおかしくない状態であったとし、そして、大野の右奇形の形成の過程について数年で発症時の大きさまでに発達したものとは考えられないとしていること等、大野の基礎疾患の特異性及びその程度を併せ考慮すれば、前示の程度の公務遂行に伴うストレス等による血圧の変動ないし昂進が存するとしても、脳動静脈奇形それ自体の増悪に自然的経過を超えて急激に悪化させたものとまで認めることはできない。

七 結論

以上によれば、大野の本件発症は、その前駆症状としての小出血も含めて、公務が相対的に有力な原因となったと認めるに足りないというべきである。

したがって、本件大野の死亡につき公務起因性を否定し、原告に対して公務外認定をした本件処分は適法である。

(裁判長裁判官 吉原耕平 裁判官 安井省三 裁判官 前田巌)

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